崖っぷちを歩む

今日はずっと自意識と自我の手放し方について考えていた。

 

人間は自意識を持つから考えることができるし、考えれば考えるほど自我は増大していくので結局自意識も自我も手放すことなんてできない、という結論になった。

 

自分が人よりも気にしいなだけだと思っていた事象には名前がついていた。統合失調。でも幸いな事に、私はギリギリのところで踏みとどまっていた。

 

医者に「前野さんは一歩手前なので、療養した方がいいですね。療養した後もきっかけがあれば発症しますので、無理はしないでくださいね」と言われた時から、私は自我と手を繋ぎ、自意識の崖を歩いている。

 

自意識の崖は断崖絶壁になっていて、下を覗けば底のない真っ暗闇の無意識と憂鬱が広がっている。無意識は時に崖を歩く私の足を引っ張ったりして、底に落とそうとしてくる。そういう時は大抵自我のいない時だ。

しかし、自我がいる時はいる時で厄介だ。自我は私の考えを餌として大きくなるが、あまりにそれが大きくなりすぎると歩けるスペースが狭くなり、奈落へ落ちてしまいそうになる。

 

自我も自意識も悪意があってそんな事になるわけじゃない。あくまでも”自”意識、”自”我なのだから、そもそも悪意があってはならない。結果としてその無意識の憂鬱にたどり着いてしまう、自分の脳の仕組みがいけないのだ。

 

人は追い詰められると普通に戻ることができなくなる。自意識の崖っぷちに来た人間は自我と繋がれたまま歩くか、歩みを止めて座り、せめて落ちないようにしようとするしかなくなる。(それでも奈落を覗いてしまう事になるのだが)

 

私はずっと崖を歩いている。自意識と自我とも上手い付き合いはあまりできていないが、奈落に落ちまいと抗う方法が今は歩くという方法しかないから。