終わりの季節

 

 こんな時間(0時)にMIDORIのソーダ割りなんか飲んでるところ彼が見たらどう思うだろう。きっと私は「これ、メロンソーダみたいになっておいしいよ」って勧めて

しまうんだと思う。

 

 

明日は別の男の友人と遊びに出かけるのに、財布の中にはたったの35円しかなくて、こんな夜中に酒をあおっている。この現状をどこで間違えた?と自分に問うことはしないけど、少なくとも良い状態ではないと自覚することはできた。普通の女子だったら、シャワーを浴び、化粧水をはたき、寝ている。好きな子でなくとも、最低限、女子大生としてやっているものが大多数だろう。

 

この遊びが好きな子との遊びだったら私もそうしただろうか。いや、もっと深酒をあおっていただろう。結局は、自分の小さい心を大きく偽ろうと、アルコールの力でその心の輪郭をブレさせているだけなのだ。赤と青の3Dメガネをかけて飛び出して見える絵を見続けていることと何ら変わりはない。

 

異性との交流はいつでも緊張する。同性でも少し緊張するのだから、その差は計り知れない。

 

今までそういう経験がなかったというのもある。高校の頃接客のバイトをしたおかげで社交辞令と少しの対人能力はついたが、それが通用するのは大人だけで、同級生や近い年齢の人間となると話は別だ。中学2年の頃、昼の放送で大好きなテクノを流した。それで何か、この学校と私を取り巻く悪い環境がすべて変わると思った。結果、何も変わらなかった。あの時、私の青春時代が終わった。あの時から私は同世代と会話ができなくなった。

 

先に書いた通り、私は浮気性だった。浮気性とでも言わないとこの感情に整理がつかない。俗語で言い表すのなら、童貞。私の心は童貞だ。しかも素人の。優しくされただけで惚れてしまう。惚れっぽいどころではない。もはやそれは異性と接したことのない童貞、一目でわかるダサ坊の姿。それもそうだ。私の青春は中学半ばで終了した。ロクに恋心も抱かず、画面に映る素直な奴隷に恋をして、人とはロクに交流せず。今まではそれを認めるのが恐ろしかったが、どうしようもない。私は素直に認めることにした。

 

そもそも愛とはいったい何なのだろう?「価値観は人それぞれ」なんてきれいごとを言うやつがたまにいるが、1週間で終わる関係だとしてもそこに愛があったと言い切れるのだろうか。

世間ではワンナイトラブ、なんていう言葉があるがあれはラブーすなわち愛ーでも何でもない。ただの排泄、ストレスの発散に近い運動だ。たった一晩で愛が育つわけがない。そこで育っているのは役に立たない自我、それだけだ。

 

愛は、人に与えたり受け取ったりすることで初めて生まれると考えている。それを受けとってもらえなかったり、与えても捨てられてしまったとき、悲しみが生まれる。愛と悲しみは常に一緒だ。くすぶる愛、一人で抱え込む愛は、愛のふりをした悲しみだ。愛して、思うことがこんなにつらいのなら、と、人は悲しむ。愛の形をした悲しみは日に日に大きくなっていく。その大きな悲しみを分け合うことがいつかできたら、悲しみは愛へと変化する。愛は大きくも小さくもならず、停滞するが、育てることができる。

 

 

大きくなりすぎてしまった愛は悲しみになる。

 

その悲しみを一人で抱えて去るのは、愛かもしれない。

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